ディープインパクト皐月賞

?.bmpディープ1冠目の皐月賞では、単勝支持率が63.0%(オッズは1.3倍)で、その昔のトキノミノル73.3%に次ぐ史上2位となった。上には上がいる!にいきなり躓き落馬寸前まで追い込まれ後手を踏み馬券を握る私をあおざめさせ、最後方からの競馬。さらに向こう正面でローゼンクロイツと接触するちぐはぐな競馬。しかし直線では、出走したレースで初めて鞭が入り17頭のライバルを横目に最後は2着のシックスセンスに2馬身半の差をつけ勝利。勝利ジョッキーインタビューで武豊は「いや、もうパーフェクトですよ。走っているより飛んでいる感じだったんで」と言葉を残した。無敗での皐月賞制覇は史上16頭目。
ようつべ動画を見る 皐月賞

ディープインパクト東京優駿

.bmp左回りコースは初出走となったディープインパクトの2冠目を期待したファンはなんと14万人も府中に訪れた!オッズはこれもびっくり1.1倍でハイセイコーの持っていた当競走における単勝支持率最高記録を更新です。スタートはお決まりのように皐月賞同様出遅れたが、道中はじっくり後方待機、長い直線では先に抜け出したインティライミに残り200m地点で並んでから同馬を突き放して5馬身の差の圧勝。同じオーナーのキングカメハメハに並ぶ2分23秒3のレースレコードタイで優勝!武豊をもってしてインタビューで「感動しています。この馬の強さに…」と言わせ、レース後の記念撮影では岡部ばりに指を2本立てて二冠をアピールした。
ようつべ動画を見る 東京優駿

ディープインパクト菊花賞

?.bmp皐月賞や東京優駿(日本ダービー)の時と違って好スタートを切ったものの、スタート後からホームストレッチを過ぎるあたりまでかかり続けた。武豊は折り合いをつけるために馬群の内側にディープインパクトを入れた。向こう正面では落ち着きを取り戻し、直線に入ってからは先に抜け出したアドマイヤジャパンを上がり3ハロン33秒3の脚で交わし2馬身差をつけて優勝、1994年のナリタブライアン以来、11年振り史上6頭目の三冠馬・そして21世紀突入後として初の三冠馬・更に1984年のシンボリルドルフ以来、21年ぶり史上2頭目の無敗での三冠馬となった
ようつべ動画を見る 菊花賞

ナリタブライアン皐月賞

.bmp皐月賞では圧倒的な1番人気に支持された。同レースでは中山競馬場芝2000mのコースレコードを破る走破タイムで優勝し、5連勝を達成するとともにクラシック一冠を獲得した
ようつべ動画を見る 皐月賞

ナリタブライアン東京優駿

2147027523.jpg東京優駿(日本ダービー)では皐月賞の内容がファンによって高く評価され、圧倒的な1番人気に支持された。同レースでは早めにスパートをかけながらも出走馬の中で最も速い上がりを繰り出して優勝。クラシック二冠を達成した。(
ようつべ動画を見る 東京優駿

ナリタブライアン菊花賞

p@@p@@.bmp弟は大丈夫だ!ナリタブライアンの秋緒戦には菊花賞トライアル競走の京都新聞杯が選択された。北海道から栗東トレーニングセンターへ戻った後、それほど強い調教が課されていなかったことから体調面を懸念する声もあり、「ナリタブライアンが負けるとすればこのレース」とも言われた。同レースでは圧倒的な1番人気に支持されたが、直線で一時先頭に立つもスターマンに競り負けて2着に敗れ、懸念が的中する形となった。しかし菊花賞では、京都新聞杯出走後ナリタブライアンの体調は上向いたと判断され、クラシック三冠達成への期待も相まって圧倒的な1番人気に支持された。ナリタブライアンは同レースをレースレコードを更新する走破タイムで優勝し、日本競馬史上5頭目となるクラシック三冠を達成した
ようつべ動画を見る 菊花賞

シンボリルドルフ 皐月賞

.bmp皐月賞では弥生賞から22kg減の馬体重となった。前走時の外傷によって休んだ後、運動の遅れを取り戻すために行った強めの調教が原因だった。再び2強対決となり、2頭に人気が集中しそうだったため2頭とも単枠指定とされた。今度はシンボリルドルフが1番人気となった。シンボリルドルフは道中3番手で競馬を進め、4コーナーでは先頭になった。直線に入るとビゼンニシキと一騎打ちになり、シンボリルドルフは外側を走るビゼンニシキと激しくぶつかり合い、外に斜行している。しかし最後はビゼンニシキを1馬身1/4抑えてレースレコードで一冠達成。表彰式で三冠を意識して岡部が一冠を示す1本指を指し示した(このパフォーマンスは後にディープインパクトに騎乗した武豊も行った)。
ようつべ動画を見る 皐月賞

シンボリルドルフ 東京優駿

.bmp東京優駿(日本ダービー)はビゼンニシキとの「SBダービー」と呼ばれた。この2頭の連勝複式馬券は銀行馬券と思われ、今も投票額最高記録を維持している。しかし単勝では1.3倍とシンボリルドルフの圧倒的1番人気だった。また、回避馬が続出し、当時の戦後最少頭数となる21頭でのレースとなった。レースではスズマッハが逃げる展開となった。シンボリルドルフが向こう正面で岡部のゴーサインに反応しなかった為に競馬場は騒然となったが、直線に入ると自らハミをとり3頭併せで先を行くスズマッハ・フジノフウウン・スズパレードを差し切り二冠達成。この出来事から岡部は「ルドルフに競馬を教えてもらった」と語っている。無敗での二冠制覇はトキノミノル、コダマ以来3頭目の快挙だった。なおビゼンニシキは14着と沈んだ。ここでも岡部は表彰式で二冠を示す2本指を立てた。
ようつべ動画を見る 東京優駿

シンボリルドルフ 菊花賞

.bmp秋緒戦、すっかりリフレッシュしたシンボリルドルフはセントライト記念をレコードタイムで優勝。そして、三冠最後の菊花賞に挑む。道中は馬群の中団に位置し、3コーナーではやや前の馬が壁になったものの、最後の直線で抜け出すと外から襲い掛かってきたゴールドウエイを3/4馬身退け優勝。日本の中央競馬史上初の無敗でのクラシック三冠を達成する。表彰式では岡部が三冠を示す3本指を立てた。そして、3000mの菊花賞後、中1週でジャパンカップへと駒を進めた。
ようつべ動画を見る 菊花賞

セントライト

240px-StLite1.jpgセントライト(1938年 - 1965年)は、日本の競走馬・種牡馬。1941年に活躍し、同年日本競馬史上初のクラシック三冠馬となった。1984年顕彰馬に選出。

兄弟は優秀で、タイホウ(帝室御賞典、目黒記念、オールカマー)、クリヒカリ(別名アルバイト、横濱農林省賞典4歳呼馬(現:皐月賞)、帝室御賞典(秋))、トサミドリ(大種牡馬、皐月賞、菊花賞)等がいる。1941年、横濱農林省賞典4歳呼馬(現:皐月賞)、東京優駿競走、京都農林省賞典4歳呼馬(現:菊花賞)を勝ち、日本の競走馬として初めてクラシック三冠馬となった。

重馬場を得意とし、重ハンデにも良く耐えた。また、東京優駿競走を勝利した時には4連闘目かつ8馬身差の圧勝だった(2006年現在も日本ダービー最大着差)。まさに日本競馬創成期の名馬と言える。

その業績を称えて、菊花賞の関東のトライアルレースとして、1951年から「セントライト記念」を開催している(1964年ラジオ関東(現RFラジオ日本)から優勝杯が寄贈され「ラジオ日本賞」の冠が入った)。

三冠達成後、関係者は重ハンデを背負う事を嫌い天皇賞に挑戦する事無く引退。生まれ故郷の小岩井農場に戻り種牡馬生活を送ることになる。当初はオーライト(平和賞・現在の天皇賞(春))、オーエンス(天皇賞(春))、セントオー(菊花賞)等の八大競走勝ち馬を輩出したものの、小岩井農場を経営していた小岩井農牧(株)が、GHQの命令によりサラブレッドの生産から撤退することになり、1949年にセントライトも岩手県畜産試験場に移ったが、繁殖牝馬の質が低下した事もあり種牡馬成績を落としてしまう。

1965年2月1日、老衰のため同試験場で死亡。シンザンの、自身に次ぐ史上二頭目の三冠達成から数ヶ月後の事だった。1984年、顕彰馬に選出された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



ようつべ(youtube)動画をみる

シンザン 東京優駿

.bmpシンザン(1961年 - 1996年)は、1960年代に活躍した日本の競走馬・種牡馬。日本競馬史上2頭目、戦後初のクラシック三冠馬。1964年・1965年年度代表馬。1984年に顕彰馬に選出された。八大競走の勝利数から「五冠馬」と呼ばれる。その走りは「鉈の切れ味」と形容された。シンザンは戦後期の日本競馬を代表する競走馬で、1964年の日本クラシック三冠馬である。五冠馬という称号もあるが、これは翌1965年に有馬記念、天皇賞(秋)を勝利したために呼ばれている。

デビュー時はあまり目立たず、同厩のオンワードセカンドの方が期待されていた。本格的に頭角を現すのはスプリングステークスでウメノチカラを破ってから、その後クラシック三冠(皐月賞、東京優駿、菊花賞)、宝塚記念、天皇賞(秋)、有馬記念といった当時牡馬が獲得可能なGI級競走を全て制した。この間記録したデビューから引退レースまでの連続連対19は、中央競馬におけるレコードである。「シンザンを超えろ」のキャッチフレーズと共に、この後長らくシンザンは日本競馬の目標であった。

引退後は種牡馬となり、初期にはスピード馬(スガノホマレ、シルバーランド等)、後期にはクラシックホース(ミナガワマンナ、二冠馬ミホシンザン)を輩出、他にも数多くの優駿を送り出した。当時冷遇されていた内国産馬に種牡馬の道を切り開いた種牡馬としての功績も大きい。

種牡馬引退後も、1995年にサラブレッドの長寿記録、1996年に軽種馬の長寿記録を更新するなど最後まで注目を集めた。皐月賞前に、シンザンを「炭鉱王」の上田清次郎に売却する話があった。上田はすでに高齢で、どうしても東京優駿(日本ダービー)を獲りたかったためである。結局、武田が猛反対し実現しなかったが、翌年同じ橋元幸吉の持ち馬で東京優駿(日本ダービー)で1番人気に支持されたダイコーターは2400万円で上田に売却されている。
三冠後は年内のレースに出走せず、故障でもないのに翌春の天皇賞(春)を回避したことで、「強い古馬との対戦を避けているのでは?」などとマスコミから取材され、武田は「シンザンが走りたくないと言っている」と答えている。なお、1964年の有馬記念はシンザンと同期のウメノチカラがヤマトキヨウダイの4着、翌1965年の天皇賞(春)はアサホコが2着に1.2秒をつけて優勝している。
GI級レースは宝塚記念を含め6勝しているが、宝塚記念は八大競走に入っていなかったため、シンザンは六冠馬ではなく、五冠馬と称される。
4敗のうち3敗は平場オープン競走であったため、平場オープン競走を調整代わりに使っていたとの批判が大川慶次郎などからあった。
引退式は初めて東西2場で行われ、東京競馬場では1966年1月9日に、京都競馬場では同年1月16日に行われた。
武田は自身が管理し、皐月賞、東京優駿(日本ダービー)を制したコダマと比較して「コダマはカミソリ、シンザンはナタの切れ味。ただしシンザンのナタは髭も剃れるナタである」と称した。
シンザンは15勝したが、相手なりに走る為か、レコードタイムで勝ったことはなかった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


ユーチューブ動画を見る 東京優駿

ミスターシービー 菊花賞

CBBBBB.bmp1982年、美浦・松山康久厩舎から競走馬としてデビュー。主戦は吉永正人が新馬戦から引退までつとめた。1983年の4歳(現表記3歳)牡馬クラシック戦線をリードし、1964年のシンザン以来となる中央競馬クラシック三冠(皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞)を制した。その戦いぶりはすさまじく、皐月賞は不良馬場のなかを追い込んで勝ち、東京優駿(日本ダービー)では出遅れて最後方からのスタートとなるものの、直線追い込んで快勝するが、タケノヒエンの斜行を回避した際、今度はミスターシービーがキクノフラッシュと衝突した上ニシノスキーに騎乗していた安田富男が馬上で立ち上がるほどの斜行を行う形(尤も、これは圧倒的1番人気を背負ったが故の捨て身の賭けであったと、後に吉永正人が語っている)になってしまった事で大橋巨泉が痛烈な批判を展開した。事実、この日本ダービーでは馬は1着だったものの騎手は4日間の騎乗停止処分を受けており、『吉永正人は優勝トロフィーを返上した』というエピソードがある。菊花賞では3コーナーの上り坂からロングスパートを仕掛け、下り坂でまくりながら押し切るという力強い競馬を見せて勝利し、シンザン以来19年ぶりの三冠馬となる。 レース後、松山師は古馬との対戦への不安を語り、その言葉通り有馬記念を回避した。

ミスターシービーの同期にはカツラギエース(1984年宝塚記念・ジャパンカップ)・ニホンピロウイナー(1984年、1985年マイルチャンピオンシップ・1985年安田記念)・ギャロップダイナ(1985年天皇賞(秋)・1986年安田記念)・リードホーユー(1983年有馬記念)・スズカコバン(1985年宝塚記念)がおり、後にそれぞれGIを勝ったという粒揃いの世代だった。更に皐月賞・日本ダービーでは共にメジロモンスニーが2着に入っている(菊花賞未出走)。その中でカツラギエースはミスターシービーの最大のライバルとも言え、三冠戦では破ったものの、京都新聞杯ではカツラギエースの4着に敗れている。

翌1984年、古馬になったミスターシービーは出走を予定していたアメリカジョッキークラブカップが降雪によるダート変更の可能性が高くなった為に出走を取りやめ、その後の故障もあって秋の毎日王冠にて復帰する。南関東公営三冠のサンオーイとの初対決が話題になったが、好敵手カツラギエースを捕まえられず2着に敗れたものの、当時としては破格の上がり3ハロン33.7秒(推定)を計時し驚かせた。続く、この年より東京芝2000mに短縮された天皇賞(秋)はまたも最後方から追い込む豪快なレースで優勝(この時点で、実質四冠馬である)。シンザン以降続いていた天皇賞(秋)の1番人気19連敗をストップさせたが、1歳年下に後輩の三冠馬シンボリルドルフがおり、これが最後の勝利となった。ジャパンカップではカツラギエースの逃げ切り勝ちに屈するが、このときシンボリルドルフ3着に対し、ミスターシービーは10着と惨敗。有馬記念ではシンボリルドルフ1着・ミスターシービーは3着と敗れ、精彩を欠く。

現役最後の年となった1985年は、初戦のサンケイ大阪杯でもステートジャガーの2着に敗れ、続く天皇賞(春)で三度シンボリルドルフに挑んだ。このとき、ミスターシービーにしては珍しい先行策をとったが、結局シンボリルドルフの5着に敗れ、この天皇賞(春)が最後のレースとなった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ようつべ動画を見る 菊花賞

ミスターシービー 東京優駿

ooooo.bmpミスターシービーの母シービークインは父トウショウボーイと同じ新馬戦(このレースには、後にトウショウボーイ・テンポイントと共に「TTG」と呼ばれたグリーングラスが出走していた事でも知られている)でデビューし、その強さに感激したシービークインの馬主が引退後にトウショウボーイの父・テスコボーイとの配合を目指したが、「お助けボーイ」の異名を持つ人気種牡馬テスコボーイの種付権を確保出来ず頓挫。已む無く、権利は持っていなかったものの空きがあった売り出し途上のトウショウボーイを代用で付けた。ミスターシービーの配合は、偶然の悪戯によって為されたのである。

シービークインは4歳牝馬特別・毎日王冠・京王杯スプリングハンデキャップを逃げ切るなどスピードにあふれた牝馬であったが、初仔であるミスターシービー以降については、第2子(父ナスルエルアラブ)の出産時のアクシデント(結果死産)の影響でその後は種付けしても不受胎が続き、短い繁殖生活の引退迄、終にミスターシービー以外の子供に恵まれず、「初恋の人(トウショウボーイ)に操を立てた」ともいわれる。6頭いる三冠馬のうち、兄弟がいないのはミスターシービーだけである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ようつべ動画を見る 東京優駿

ミスターシービー 皐月賞

wwwwwwww.bmpミスターシービーは、日本の競走馬・種牡馬。「ミスターシービー」という名には、生産者である千明(ちぎら)牧場を代表する馬という意味が込められており、同名・同生産者の競走馬(父:プライオリーパーク)が第6回東京優駿大競走に出走しているが、残念ながら初代の東京優駿大競走の成績は10着敗退に終わっている(優勝・ヒサトモ)。因みに、馬主でもある千明牧場の代表である千明大作の父・千明康は1963年にメイズイで、祖父の千明賢治は1938年にスゲヌマでそれぞれ東京優駿競走(日本ダービー)を勝っており、馬主の親子三代での日本ダービー勝利は唯一の例である。さらに、調教師・松山康久の父・松山吉三郎は1962年の日本ダービーをフエアーウインで制しており、こちらも現在まで唯一の親子二代ダービートレーナーとなっている。また、父内国産馬の三冠馬はミスターシービーのみである。1986年、顕彰馬に選出された。

英文馬名は「Mr.C.B」と言う珍しい表記である
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ようつべ動画を見る 皐月賞
ようつべ(YouTube)競馬 必見!ようつべ競馬動画HOMEへ

米国カリフォルニアのユーチューブ(ようつべ))社が運営する、動画共有ポータルサイトで、他の動画共有サイトとしてはGoogle VideoやDailymotionなどがあります。

ユーザーがアップロードした動画がFlash Video形式(.flv)に変換された後に、公開され最先端のWeb2.0的なサイトとして評価が高いものです。

Flashプレイヤーを用いて動画を再生しますので、Flashをインストールしていれば誰でも動画を再生することができます。(ほとんどの場合Flashはすでにインストール済です)

アップロード時に、著作権者に無断で動画をアップロードしないよう警告されるが、実際には世界中のありとあらゆるテレビ番組やコマーシャル、ミュージッククリップ等がアップロードされ非限定で公開されており、無法地帯と化しているとの見方もある。

そして誰でも自由に動画を投稿できます。なので不特定多数に見られてもいいような内容なら友達同士でシェアするのにも便利です。

ただし、誰でも投稿できるところから、著作権侵害が疑われる物がたくさんありますこれを受けて2006年3月28日、アップロードできる動画ファイルの長さが10分間までに制限された。

しかし一方で、YouTubeユーチューブ(ようつべ))はメディアとしての訴求力の高さから、ディズニーやナイキなどの企業がYouTubeユーチューブ(ようつべ))のナショナルクライアントとなり、広告やリッチメディアコンテンツを導入している例も。

これは多くの動画がユーザ個人の投稿や、Trailer(予告編)ということも関係あります。

ネットスラングでは「ようつべ」(YouTubeユーチューブ(ようつべ))のローマ字読み)などと書かれることも。

また当然ながら、動画はすべて無料です

ユーチューブ史2005年2月 - 会社設立。

ようつべ史2005年11月7日 - ベンチャーキャピタルのSequoia Capitalから350万ドルの投資を受ける。

youtube史2006年2月16日 - NBCが著作権の侵害として、テレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」の「Lazy Sunday」の映像を削除。大手のテレビ局からの要請による動画削除はこの件が初めてであった。

ようつべ史2006年3月27日 - 10分を超える動画ファイルのアップロードを制限。

ユーチューブ史2006年4月5日 - Sequoia Capitalから800万ドルの投資を受ける(二度目)。

youtube史2006年4月10日 - Director制度開始。

ようつべ史2006年6月15日 - 大規模な違法コンテンツ(アニメなど)の削除活動が始まる。

ユーチューブ史2006年6月24日 - 音楽家専用のアカウントを作れるMusicians制度が始まる。

youtube史2006年6月27日 - かつて否定的な立場をとっていたNBCユニバーサルが一転し、提携を発表。自局番組の宣伝動画などの配信を始める。

ようつべ史2006年7月14日 - ニュース記者のロバート・ターが著作権侵害でYouTubeに対し米連邦地裁で訴訟を起こす。

ユーチューブ史2006年8月4日 - メンテナンスを行い、デザインをリニューアル、新機能が追加された。

youtube史2006年9月中旬 - プレイヤーのデザインを再びリニューアル。

ようつべ史2006年10月上旬 - 会社をカリフォルニア州サンブルノに移転。

ユーチューブ史2006年10月2日〜6日 - 日本の著作権関係権利者団体・事業者(テレビ局など)が集中的に削除要請を行い、約3万件のファイルが削除される。

youtube史2006年10月9日 - Googleが16億5000万ドルでYouTubeを株式交換で買収した。但し、ブランド名やサービスなどは既存のままであり、Googleのグループ会社になる。ちなみにこのうちの2億ドルが訴訟対策費用となる予定。

ようつべ史2006年10月 - QuickList機能が追加される。

ユーチューブ史2006年11月6日 - Time誌の「Invention of the Year for 2006」に選ばれる。

youtube史2006年12月7日 - 新サービスの実験用サイトとしてTestTube(テストチューブ)を開設。最初の実験として、チャットルームで同じ動画を鑑賞、感想を書き込むなどが可能な「Stream」を公開した。

ようつべ史2006年12月17日 - Time誌の表紙として、YouTubeの動画メニューの画面が飾った。これは、この年の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた「You」の意味の1つに「YouTube」も含まれることからである。

ユーチューブ史2007年2月6日 - YouTubeチャド・ハーリーCEOと親会社のGoogleの幹部が来日し、日本の著作権団体と協議。

youtube史2007年3月19日〜25日 - ユーザ投票で2006年の最優秀動画を決定する「YouTube VIDEO AWARDS」が行われた。

ようつべ史2007年3月22日 - 民間調査会社のネットレイティングスの発表で日本国内家庭からの利用者が1000万人を超えた。

サイト内人気記事

  • seo