1999米年度代表馬:Charismatic
ユーチューブ動画:カリズマティック(Charismatic)
アファームド以来21年ぶり、史上12頭目の三冠達成を賭けて臨んだ米国三冠最終関門ベルモントS、サンデーピクニックが日本馬として出たレースで惜しくも3着に終わった。
G1勝ちはケンタッキーダービー プリークネスS
1999年エクリプス賞年度代表馬で3歳牡馬チャンピオンに輝く
2000年アメリカにて種牡馬入り後、2002年JRAが購入。日本軽種馬協会静内種馬場に繋養されるがなかなかいい仔に恵まれませんね。
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ナリタブライアン(母パシフィカス)
デビュー前からビワハヤヒデの弟として注目を集めた。1993年8月にデビュー。同年11月から1995年3月にかけてクラシック三冠を含むGI5連勝、10連続連対を達成し、1993年JRA賞最優秀3歳牡馬、1994年JRA賞年度代表馬及び最優秀4歳牡馬に輝いた。
1995年春に故障(股関節炎)した後、その後遺症から競走成績は低迷し、6戦して重賞を1勝するにとどまった(GI は5戦して未勝利)が、第44回阪神大賞典におけるマヤノトップガンとのマッチレースや短距離戦である第26回高松宮杯への出走によってファンの話題を集めた。第26回高松宮杯出走後に発症した屈腱炎が原因となって1996年10月に競走馬を引退した。
競走馬時代の主戦騎手は南井克巳が務めた。
競走馬を引退した後は種牡馬となったが、1998年9月に胃破裂を発症し、安楽死処分がとられた。種牡馬としては重賞優勝馬を出すことができなかった。(Wikipedia)
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ビワハヤヒデ(母パシフィカス)
主要勝ち鞍:菊花賞・天皇賞(春)・宝塚記念など。16戦10勝(内GI3勝)2着5回
1992年9月に3歳の時にデビューし、2着に1.7秒の大差をつけて圧勝する。続くもみじステークス、デイリー杯3歳ステークスを共にレコードタイムで快勝する。1番人気に支持されたGI朝日杯3歳ステークスではエルウェーウィンに競り負けたが翌年のクラシックの有力候補として3歳戦を終えた。
1993年、4歳初戦に陣営はメンバーが手薄な共同通信杯4歳ステークスを選択。しかし前を走るマイネルリマークを捕らえることができず、前走に続いて僅差で敗れる。次走の皐月賞トライアル若葉ステークスからはそれまで騎乗していた岸滋彦が降ろされ、名手・岡部幸雄を鞍上に迎えて、勝利を収めた。
クラシック初戦の皐月賞では一旦は先頭に立つもののゴール直前にナリタタイシンの強襲をうけ2着。続く東京優駿(日本ダービー)でも悲願の日本ダービー制覇を狙う柴田政人騎乗のウイニングチケットに敗れ、ここでも2着となった。
有力馬は秋のGIに体調を合わせるため夏シーズンに放牧に出されることが多いが、調教師の濱田はあえてビワハヤヒデを厩舎に残し徹底的に鍛え上げることにした。初戦の神戸新聞杯ではネーハイシーザーに1馬身1/2差をつけ勝利。本番の菊花賞でも直線入口で抜け出して他馬を寄せ付けず、ステージチャンプに5馬身差をつけてのレコードタイムで悲願のGI制覇を成し遂げた。続く有馬記念では、トウカイテイオーの「奇跡の復活」と称された激走の前に2着と敗れたが、GI1勝、2着3回の実績が評価され、安田記念と天皇賞(秋)を制したヤマニンゼファーを抑えて年度代表馬に選ばれた。
翌1994年、古馬になると4歳春の時のような勝負弱さを完全に克服する。緒戦の京都記念を7馬身差で快勝し、京都競馬場の改修工事のため阪神競馬場で実施された天皇賞(春)でも直線でナリタタイシンに詰め寄られながらも再度突き放すレースぶりで1馬身1/4差をつけて優勝。宝塚記念もほぼ持ったままでレコードタイム勝ちを収める。秋初戦でもオールカマーで4歳時のライバル、ウイニングチケット以下に1馬身3/4差をつけて優勝、秋のGIシーズン、さらには有馬記念でのナリタブライアンとの兄弟対決に向けて最高のスタートを切った。
しかし、1994年10月30日史上2頭目の天皇賞春秋連覇を目指して臨んだ天皇賞(秋)でネーハイシーザーの5着に敗北、生涯で初めて連対を外した。その後、競走中に屈腱炎を発症していたことが判明し、引退を余儀なくされる。結局、翌週の菊花賞を制して三冠馬となったナリタブライアンとの兄弟対決が実現することはなかった。現役最後の年となったこの年は年初からの二つのGIを含む重賞4連勝が評価されJRA賞最優秀5歳以上牡馬に選出された。
引退後は種牡馬となり、ビワハヤヒデが3歳から活躍していたことからも期待されたが、産駒にはステイヤー資質が色濃く出て、重賞優勝馬がまだ出ておらず競走馬時代のライバルであるウイニングチケットに後れを取っている。代表産駒は、京都2400mのコースレコードホルダーであるサンエムエックス。
2005年をもって種牡馬生活を引退、その後は門別町にある日西牧場で余生を過ごしている。(Wikipedia)
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ダンスパートナー(母ダンシングキイ)
デビューは1995年1月、小倉競馬の新馬戦と遅かった。出遅れ癖が原因し後方からのレースを余儀なくされていたが、チューリップ賞は2着。この年の桜花賞でワンダーパヒュームの2着になった後、武豊を背に優駿牝馬(オークス)を制する。しかも翌週の東京優駿(日本ダービー)よりも速い勝ちタイム(共に良馬場でオークス:2.26.7、ダービー:2.27.3)だったことで高い評価を得た。オークス制覇後はフランスのノネット賞からGIヴェルメイユ賞に挑戦するも惜敗。帰国後はエリザベス女王杯に挑戦せず、菊花賞に挑戦したことも注目された。(エリザベス女王杯が翌年から古馬解放が決まっていたため「エリザベス女王杯は来年以降でも取れる」ということで出走した)結果は馬体重増加も影響しマヤノトップガンの5着に敗れた。同年のJRA賞で最優秀4歳牝馬を受賞。
1996年初戦となったアメリカジョッキークラブカップで、武豊がスキーキャプテンを選んだため縁は切れ、これ以降は四位洋文が騎乗する。相変わらず惜敗が続いたが、春の京阪杯を制した後宝塚記念でマヤノトップガンの3着と好走。そして秋には古馬に開放されリニューアルしたエリザベス女王杯で、ヒシアマゾンらを退けて1番人気に応えて勝利する。同年のJRA賞最優秀5歳以上牝馬を受賞。
さらに年が明けた1997年の5歳時には香港のクイーンエリザベス2世カップに出走するが8着に敗れた。続く鳴尾記念(3着)から引退まで河内洋が騎乗する。宝塚記念は前年に続き3着(勝ち馬はマーベラスサンデー)。秋シーズンは京都大賞典でもシルクジャスティス(同年の有馬記念優勝馬)の2着に敗れ、その次走エリザベス女王杯に出走して連覇を目指すが、ゴール前最後の直線で馬群に突っ込み、エリモシックに敗れると、引退レースとなった同年の有馬記念は、全く走らず惨敗した。
現役時代は気性的な面から追い込みを主とした脚質だったため、展開が向かないなどで惜敗が多く、通算成績は25戦4勝にとどまってしまったといえる。現在は繁殖牝馬だが、父サンデーサイレンス譲りの激しい気性のためか、まだ活躍馬が出ていない。(Wikipedia)
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アドマイヤドン(母ベガ)
2002年、クラシック路線を歩み、皐月賞、日本ダービー、菊花賞に出走するも、それぞれ7着、6着、4着と敗退する。その後ダート路線に転向し、盛岡で開催された統一GI・JBCクラシックに菊花賞から中1週で出走すると、いきなり2着のプリエミネンスに7馬身差をつける圧勝劇を見せる。その後、ジャパンカップダートにも出走し、JBCクラシックの勝ちっぷりから1番人気に推されたが、3着に敗れた。
2003年はフェブラリーステークスから始動するが11着に敗れ、この後秋まで休養する。復帰戦から安藤勝己を鞍上に迎え、エルムステークスを9馬身差の圧勝、マイルチャンピオンシップ南部杯を勝利、JBCクラシック連覇とダート重賞3連勝を飾り、ダートの鬼として名を轟かせた。2年連続の出走となったジャパンカップダートは、フリートストリートダンサーにハナ差の2着となって惜敗したが、この年のJRA賞最優秀ダートホースとNARグランプリ特別表彰馬に選ばれる。
2004年、休養明け初戦のフェブラリーステークスを勝ち、昨年惨敗した屈辱を晴らした。これを踏み台に、ドバイワールドカップにも挑戦したが、8着に敗れる。しかし、国内では無類の強さを誇り、休養を経てから帝王賞を勝ち、JBCクラシックを史上初となる3連覇で勝利する。ジャパンカップダートは同厩舎のタイムパラドックスに破れ2年連続の2着となった。久々の芝のレースとなった有馬記念も7着に負けたが、この年もJRA賞最優秀ダートホースに選ばれた。
2005年はダートと芝のレースを併用していたが、精彩を欠き、5月のかしわ記念が最後のレースとなった。その後、休養中にツメの不安が出るなどしたため、同年11月16日に、正式に引退が発表された。(Wikipedia)
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アドマイヤベガ(母ベガ)
ベガはサンデーサイレンスとの初めての仔を受胎したが双子だった。双子は競走馬として大成しないと言われているため、片方の胎子がつぶされ、もう片方が残された。そして、残された方の胎子から生まれたのがアドマイヤベガだった。 生まれたとき、母ベガと同様に左前脚が内側に曲がっていた。
1998年11月7日の新馬戦でデビューし1位に入線したが、最後の直線走路で斜行したために4着降着の処分を受けた。次走には未勝利戦ではなく、形の上で格上挑戦となる500万下特別のエリカ賞を選び、快勝。3戦目は、重賞のラジオたんぱ杯3歳ステークス(GIII)に出走し、これも優勝し2歳を終える。
1999年、3歳となったアドマイヤベガはクラシック戦線へ向かう。初戦は、皐月賞トライアルの弥生賞(GIII)に出走。単勝オッズ1.5倍と断然の1番人気に推されるが、ナリタトップロードに敗れてしまう。しかし、上がり3ハロンのタイムが出走メンバー中最も速く、存在感を示す。アドマイヤベガは皐月賞(GI)に向かうが、直前に体調不良を起こし、馬体重を-12kgと大幅に減らして出走する。それでも1番人気に推されたが、結局テイエムオペラオーの6着に終わる。
巻き返しを期し、アドマイヤベガは東京優駿(日本ダービー)(GI)に出走した。ここで初めて2番人気になるが、馬体重を+10kgと体調を戻してきた。道中は後方に控え、最後の直線で先に抜け出したテイエムオペラオー・ナリタトップロードの二頭を大外から後方一気の末脚でかわし、当時アイネスフウジンが持っていたレースレコードタイ記録(2:25.3)で優勝し、1996年生まれ8845頭の日本産サラブレッドの頂点に立った。この時の三宅正治アナウンサーによる実況「母ベガの二冠達成から6年!またもその息子が輝く一等星に!」はファンの間では語り草となっている。このレースで(前年スペシャルウィークに続いて)武豊は史上初のダービー連覇を達成した。
その後、3歳秋初戦として菊花賞トライアルの京都新聞杯(GII)に出走したアドマイヤベガは、再びナリタトップロードを差し切って優勝。しかしクラシック第3戦菊花賞(GI)ではナリタトップロードの6着に敗れる。その後休養に入り、翌年の宝塚記念(GI)を目標に調整が進められたが、左前脚の繋靭帯炎が発覚し、2000年に引退した。
引退後は、早来町の社台スタリオンステーションで種牡馬となり、2004年には初年度産駒が走り出し好成績を収めた。しかしその年の10月29日に偶発性胃破裂の為死亡。残した産駒はわずか4世代のみとなった。 2006年にはその産駒キストゥヘヴンが桜花賞を制している。(Wikipedia)
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アグネスフライト(母アグネスレディー)
中央競馬で通算2111勝を挙げ、現在は調教師を務める名手河内洋に悲願の日本ダービー制覇を達成させた競走馬である
デビューは比較的遅い3歳の2月、京都競馬場で行われた新馬戦を勝利する。2戦目の若葉ステークスでは12着に敗れ皐月賞には出走できなかったが、若草ステークス、京都新聞杯を制し、東京優駿(日本ダービー)への出走権を獲得した。東京優駿では同競走三連覇のかかった武豊と皐月賞優勝馬エアシャカールを直線で猛然と追い上げハナ差で勝利した。秋初戦の神戸新聞杯は2着に敗れるが、エアシャカールには先着する。しかし、1番人気で迎えた三冠最後の菊花賞ではエアシャカールの5着に敗れる。その後ジャパンカップに挑んだが、13着に敗れた。
古馬となった翌年、京都記念を2着とまずまずの滑り出しを見せるが、次走の大阪杯で10着に敗退後、屈腱炎を発症、1年7ヶ月の長期休養を余儀なくされる。そして、2002年の天皇賞(秋)で復帰するも15着。ジャパンカップでは16着と最下位に敗れてしまう。その後、6歳まで現役を続けたが、東京優駿(日本ダービー)以降、1度も勝ち星を上げることができず、2003年の阪神大賞典を最後に現役を引退した。引退後は種牡馬入りし、産駒は2007年にデビュー予定。(Wikipedia)
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アグネスタキオン(母アグネスレディー)
2戦目に選んだラジオたんぱ杯3歳ステークスはさらに相手が強化されたが見事に勝利。2馬身半差の2着はのちの東京優駿(日本ダービー)、ジャパンカップ優勝馬ジャングルポケット、3着はのちのNHKマイルカップ、ジャパンカップダート優勝馬クロフネと、後から振り返るとのちのG1馬が1着、2着、3着を占める超ハイレベルの一戦であった。
翌年、年明け初戦に選んだ弥生賞は不良馬場となったが、2着のボーンキングに手前も変えずに5馬身差という圧倒的な差で勝利、その強さを中山の観衆に見せつけた。4着にはのちの菊花賞、有馬記念、天皇賞(春)の優勝馬マンハッタンカフェがいた。
年明け二戦目はクラシック第一弾となる皐月賞で、単勝1.3倍の圧倒的1番人気に見事応えて快勝。2着にはのちの宝塚記念優勝馬ダンツフレーム。これで4戦全勝、しかもいずれも危なげのない内容での勝利であったことから、三冠は確実との声もあったが、5月2日に左前浅屈腱炎を発症し、ダービーを断念。その後社台ファームに放牧されたが、関係者協議の上で引退が決定し、8月29日に引退発表がなされた。9月30日には阪神競馬場で引退式が行われた。
日本ダービーのTV中継で、「ジャングルポケットがゴールした瞬間に、2馬身先にアグネスタキオンが走っている姿が見えた」と、ある解説者が発言していた事は有名。また、完勝に見えた皐月賞であるが、鞍上の河内洋は「この馬本来の走りではない」とコメント。この馬の奥の深さがうかがい知れるコメントである。また、屈腱炎を発症した左脚は弥生賞のレース後から、具合があまり良くなかったとのこと。
同馬が下した同世代の馬(ジャングルポケット、クロフネ、マンハッタンカフェ)がのちのちことごとく活躍したため、同馬の評価は引退後も高まっていき、幻の三冠馬と呼ぶ人もいた。(Wikipedia)
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ファインモーション(母ココット)
2001年12月1日のデビュー戦ではスタートから先頭に立ち、持ったままで後続に4馬身の差をつけて勝利。その後は怪我のため、長期休養を余儀なくされる。翌年夏の函館で復帰したファインモーションは、500万下条件戦、阿寒湖特別をともに5馬身差で連勝。続くローズステークスでも3馬身差をつけて重賞初制覇を飾る。無敗で駒を進めた第7回秋華賞、単勝1.1倍の圧倒的支持を受けたファインモーションは、好位から抜け出すと一気に後続を引き離し、2着に秋華賞最大着差となる3馬身1/2差をつけてGI初制覇。その後のエリザベス女王杯では秋華賞の再現VTRのように、2馬身1/2差をつけて勝利した。(1996年の同競走の古牝馬開放後、3歳馬の初勝利。)その時のインタビューで鞍上の武豊は「乗り手がこんなに乗ってて気持ちいいと思う馬はいない」と絶賛。そしてその年の大一番、第47回有馬記念に出走、ファン投票で2位、単勝2.6倍の1番人気に支持されるが、牡馬の壁やタップダンスシチーの一周目まくりでペースを崩されシンボリクリスエスの5着に敗れ、初めての敗戦を喫した。しかし、その年のJRA賞最優秀3歳牝馬を受賞する。
2003年はクイーンステークス(GIII)からの始動で単勝1.4倍の1番人気に支持されるが、道中の行きっぷりが悪く中団からのレースとなりオースミハルカの2着に敗れる。続く毎日王冠(GII)でも単勝1.3倍の1番人気に支持されたが道中折り合いを欠いて暴走してしまい7着と大敗、外国産馬の出走枠に漏れたことと獲得賞金不足のために天皇賞(秋)、エリザベス女王杯への出走を断念する。そして次走に選んだのはマイルチャンピオンシップ(GI)で、有利にレースを進められたものの、ゴール前デュランダルの強襲に遭い2着。年末の阪神牝馬ステークス(GII)ではクビ差ながら、単勝1.4倍の1番人気に応えて1年ぶりに勝利を得る。
2004年は安田記念(GI)を生涯最低着順の13着に敗れるが、函館記念(GIII)に出走し2着、札幌記念(GII)では勝利する。秋は当初エリザベス女王杯(GI)への参戦も視野にあったが、主戦の武豊がアドマイヤグルーヴに乗るという事情などもあり、マイルチャンピオンシップ(GI)に回るが、9着に敗れ、このレースを最後に現役を退いた。現在は繁殖牝馬。
地元関西や滞在競馬の北海道では好成績を残したが、中山、東京で行われたレースでは5着、7着、13着と良い成績を残せなかった。また、健康面に不安がある訳でもないのに長期休養をさせられる、短い距離は向かないという理由で安田記念を回避したはずが後には短距離中心に使われる、鞍上の都合でレースを変えられるなど、そのローテーションを不可解だと疑問視する声もあった。また5歳時の函館記念では斤量が56.5kgなら出走、57.0kgなら回避と明言していたが、57.0kgの斤量を課され、回避のはずが結局出走に踏み切ることもあった(2着)。この一連の不可解なローテーションに関して調教師は、距離適性と負担斤量に見合うレースがなかったと説明している
(Wikipedia)
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ピルサドスキー(母ココット)
イギリス、アイルランド、ドイツ、フランス、カナダ、日本で走り、ブリーダーズカップ・ターフ、ジャパンカップ、バーデン大賞、エクリプスステークス、チャンピオンステークス、アイリッシュチャンピオンステークスに勝ち、日本で種牡馬となった。日本での産駒の成績は不振で、2003年にアイルランドに再輸出された。
2002年には妹のファインモーションが活躍して話題になった。
1995年、4歳の夏に遅い初勝利をあげる。
翌1996年に下級重賞をいくつか勝った後、ドイツのバーデン大賞に遠征、初のG1競走挑戦で優勝した。余勢を駆ってヨーロッパ最高峰の凱旋門賞に挑み2着に好走し、さらに北米の芝レースの最高峰ブリーダーズカップ・ターフで僚馬シングスピールを下して優勝した。
翌年1997年はヨーロッパで連戦し、エクリプスステークス、アイリッシュチャンピオンステークス、チャンピオンステークスの3つの中距離の大レースに勝ったが、上半期最大のイギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスと下半期最大のフランスの凱旋門賞はそれぞれ2着に敗れた。
この年の11月に来日、ジャパンカップに出走し、人気のエアグルーヴらを破って優勝し引退した。管理するマイケル・スタウト調教師にとっては前年のシングスピールに続く2年連続のジャパンカップ制覇となった。この年のインターナショナル・クラシフィケーションの古馬中距離部門で1位(134ポイント)となり、カルティエ賞の最優秀古馬に選出された。134ポイントは1990年代では7番目に高い数値で、エルコンドルパサーと同評価である。
(Wikipedia)
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ダンスインザダーク(母ダンシングキイ)
デビュー戦は1995年12月3日、阪神競馬芝1600mの新馬戦でデビュー。血統的背景や前評判などもあって圧倒的支持を得て1番人気に推され、見事期待に応えて勝利した。2戦目にはすぐさま重賞のラジオたんぱ杯3歳ステークスに出走したが、同じサンデーサイレンス産駒のロイヤルタッチ、イシノサンデーに次ぐ3着に敗れている。
明けて1996年、初戦はGIIIきさらぎ賞に出走してロイヤルタッチの2着。しかし2番人気に推された次走のGII弥生賞で、息の長い末脚をつかって1番人気のイシノサンデーを破る。良血馬であることと奥の深いレースぶりを見せていたことで、敗戦続きながらも評価の高かったダンスインザダークは、この勝利で3歳王者バブルガムフェローと並び皐月賞の本命と目されるようになった。ところが、皐月賞の週の月曜日に発熱し、皐月賞を回避することになる。このとき同厩舎のロゼカラーも熱発で桜花賞を回避しており橋口厩舎にとっては痛いダブルパンチとなった。 その後陣営が体調を立て直し、東京優駿(日本ダービー)のトライアルであるプリンシパルステークスに間に合わせて快勝、主役として東京優駿(日本ダービー)に出走する。鞍上の武豊の東京優駿(ダービー)初制覇もかかっていたが、カーリアンの仔でデビューわずか3戦目のフサイチコンコルドの末脚の前にクビ差2着と屈した。武豊はこのときの騎乗を「直線で抜け出した際にどこかに油断があった」と発言している。
夏場は放牧に出され、秋初戦のGII京都新聞杯を完勝し、最後の一冠、菊花賞に臨む。フサイチコンコルドがカシオペアステークスで2着と敗れていたこともあり、同馬を抑えて1番人気に支持されたが、勝てなければ1981年クラシックで惜敗続きだったサンエイソロンの二の舞になると周囲では言われていた。レースでは、最後の第4コーナーで前が壁になり、直線に入ったときには12番手という絶望的な位置取りにまで下げられてしまう。しかし武豊は焦ることもなく馬群の隙間を見つけ、ダンスインザダークもそれに応えるかのように上がり3ハロン33秒8という長距離レースでは規格外の脚を繰り出して、ロイヤルタッチ、フサイチコンコルドを鮮やかに差しきり最後の一冠を手にした。この際の末脚はフサイチコンコルドの「音速の末脚」を上回るものとして「光速の末脚」と呼ばれ、実況した関西テレビの杉本清アナウンサーも「物凄い脚だ!!」と叫ぶほどであった。しかし、その激走の代償は大きく、菊花賞の数日後に屈腱炎を発症してそのまま引退となった。同年のJRA賞最優秀4歳牡馬(旧齢)を受賞。(Wikipedia)
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ダンスインザムード(母ダンシングキイ)
全兄姉にダンスパートナー、ダンスインザダーク、半兄にエアダブリン。兄姉が中長距離で実績を残した中、マイルから中距離に実績を残した。
2003年12月20日に中山の2歳新馬戦を6馬身差勝利でデビューすると、3歳緒戦となった若竹賞も勝利。この時騎乗していた岡部幸雄に復帰後初勝利をもたらした。その後武豊を主戦に据え、GIIIフラワーカップを制し重賞初勝利。牝馬クラシックに向かう。その緒戦、桜花賞では単勝2.9倍の1番人気に支持され、2着アズマサンダースに2馬身差をつけて4戦無敗で桜花賞を制した。これはメジロラモーヌ以来となる18年ぶりの関東馬の桜花賞勝利ともなった。この後東京優駿(日本ダービー)に出走するのではないかと騒がれたが、優駿牝馬(オークス)に出走する。単勝1.4倍の圧倒的1番人気に推されるもののダイワエルシエーロに逃げ切りを許し4着に敗退。レース前から大量の発汗が目立つほどイレ込んでいた。また馬体重も+12kgと増えていた。このころから気性難が騒がれ始める。
優駿牝馬後は日本調教馬の3歳牝馬としては異例のアメリカ遠征を選択。そのアメリカンオークス招待ステークスでは惜しくも2着となった。帰国後は牝馬3冠目の秋華賞にぶっつけで挑み4着と敗れる。調教師の藤沢が次走に選択したのは牡馬一線級が集まる天皇賞(秋)。ここでは13番人気となるが、ゼンノロブロイの2着に好走し藤沢厩舎所属馬のワンツーとなった。3着にはアドマイヤグルーヴが入り3連単20万馬券となった。その後はマイルチャンピオンシップでも2着に入る。マイルチャンピオンシップの後は香港の香港カップに出走したが、14頭中13着と惨敗する。同年のJRA賞で最優秀3歳牝馬を受賞した。
藤沢は「スタンド前発走が合わない」と語っており、4歳の初戦は京王杯スプリングカップとなったが、ここからしばらく掲示板にも載れないという惨敗を続けるようになった。府中牝馬ステークスでは北村宏司騎手の判断で、今までと違い最後方からの競馬を行い8着に敗れるが、出走馬最速の上がり3ハロン32秒7の末脚を繰り出す。結果的にこのレースを境に好調時の勢いを取り戻した本馬は次の天皇賞(秋)でヘヴンリーロマンスの3着と久々に好走し、今度は3連単で122万馬券を演出する。続くマイルチャンピオンシップでも牝馬ではラインクラフトに次ぐ4着となった。
2006年初戦は読売マイラーズカップ。秋華賞以来1年半ぶりに武豊が騎乗したが、ダイワメジャーの2着に敗れた。しかし次走、この年に創設されたGIヴィクトリアマイルでは北村宏司の手綱に導かれ、内から鋭く伸びて優勝。GI2勝目を挙げ、当レースの初代女王、北村は初のGI勝利となった。続いて安田記念に出走するも5着に敗れる。その後再びアメリカへ遠征し、キャッシュコールマイル招待ステークス(G3)では3コーナーから大外を追い上げ、4コーナーで先頭に立つとそのまま押し切り優勝した。 日本に帰り、毎日王冠に出走。ダイワメジャーと再び競り合う形となったが最後はクビ差敗れて2着となった。続いての天皇賞(秋)では直線で伸びを欠き6着に敗れた。次走は得意のマイル戦のマイルチャンピオンシップに挑戦し、またもダイワメジャーに敗れ2着となった。 その後、引退レースともささやかれた香港マイルに挑戦したが、内の馬の煽りもあってか12着に敗れた。2006年12月21日付けで競走馬登録を抹消され、繁殖牝馬としての今後が期待されている。なお、この年のJRA賞で最優秀4歳以上牝馬に選ばれている。(Wikipedia)
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米国カリフォルニアのユーチューブ(ようつべ))社が運営する、動画共有ポータルサイトで、他の動画共有サイトとしてはGoogle VideoやDailymotionなどがあります。
ユーザーがアップロードした動画がFlash Video形式(.flv)に変換された後に、公開され最先端のWeb2.0的なサイトとして評価が高いものです。
Flashプレイヤーを用いて動画を再生しますので、Flashをインストールしていれば誰でも動画を再生することができます。(ほとんどの場合Flashはすでにインストール済です)
アップロード時に、著作権者に無断で動画をアップロードしないよう警告されるが、実際には世界中のありとあらゆるテレビ番組やコマーシャル、ミュージッククリップ等がアップロードされ非限定で公開されており、無法地帯と化しているとの見方もある。
そして誰でも自由に動画を投稿できます。なので不特定多数に見られてもいいような内容なら友達同士でシェアするのにも便利です。
ただし、誰でも投稿できるところから、著作権侵害が疑われる物がたくさんありますこれを受けて2006年3月28日、アップロードできる動画ファイルの長さが10分間までに制限された。
しかし一方で、YouTubeユーチューブ(ようつべ))はメディアとしての訴求力の高さから、ディズニーやナイキなどの企業がYouTubeユーチューブ(ようつべ))のナショナルクライアントとなり、広告やリッチメディアコンテンツを導入している例も。
これは多くの動画がユーザ個人の投稿や、Trailer(予告編)ということも関係あります。
ネットスラングでは「ようつべ」(YouTubeユーチューブ(ようつべ))のローマ字読み)などと書かれることも。
また当然ながら、動画はすべて無料です
ユーチューブ史2005年2月 - 会社設立。
ようつべ史2005年11月7日 - ベンチャーキャピタルのSequoia Capitalから350万ドルの投資を受ける。
youtube史2006年2月16日 - NBCが著作権の侵害として、テレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」の「Lazy Sunday」の映像を削除。大手のテレビ局からの要請による動画削除はこの件が初めてであった。
ようつべ史2006年3月27日 - 10分を超える動画ファイルのアップロードを制限。
ユーチューブ史2006年4月5日 - Sequoia Capitalから800万ドルの投資を受ける(二度目)。
youtube史2006年4月10日 - Director制度開始。
ようつべ史2006年6月15日 - 大規模な違法コンテンツ(アニメなど)の削除活動が始まる。
ユーチューブ史2006年6月24日 - 音楽家専用のアカウントを作れるMusicians制度が始まる。
youtube史2006年6月27日 - かつて否定的な立場をとっていたNBCユニバーサルが一転し、提携を発表。自局番組の宣伝動画などの配信を始める。
ようつべ史2006年7月14日 - ニュース記者のロバート・ターが著作権侵害でYouTubeに対し米連邦地裁で訴訟を起こす。
ユーチューブ史2006年8月4日 - メンテナンスを行い、デザインをリニューアル、新機能が追加された。
youtube史2006年9月中旬 - プレイヤーのデザインを再びリニューアル。
ようつべ史2006年10月上旬 - 会社をカリフォルニア州サンブルノに移転。
ユーチューブ史2006年10月2日〜6日 - 日本の著作権関係権利者団体・事業者(テレビ局など)が集中的に削除要請を行い、約3万件のファイルが削除される。
youtube史2006年10月9日 - Googleが16億5000万ドルでYouTubeを株式交換で買収した。但し、ブランド名やサービスなどは既存のままであり、Googleのグループ会社になる。ちなみにこのうちの2億ドルが訴訟対策費用となる予定。
ようつべ史2006年10月 - QuickList機能が追加される。
ユーチューブ史2006年11月6日 - Time誌の「Invention of the Year for 2006」に選ばれる。
youtube史2006年12月7日 - 新サービスの実験用サイトとしてTestTube(テストチューブ)を開設。最初の実験として、チャットルームで同じ動画を鑑賞、感想を書き込むなどが可能な「Stream」を公開した。
ようつべ史2006年12月17日 - Time誌の表紙として、YouTubeの動画メニューの画面が飾った。これは、この年の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた「You」の意味の1つに「YouTube」も含まれることからである。
ユーチューブ史2007年2月6日 - YouTubeチャド・ハーリーCEOと親会社のGoogleの幹部が来日し、日本の著作権団体と協議。
youtube史2007年3月19日〜25日 - ユーザ投票で2006年の最優秀動画を決定する「YouTube VIDEO AWARDS」が行われた。
ようつべ史2007年3月22日 - 民間調査会社のネットレイティングスの発表で日本国内家庭からの利用者が1000万人を超えた。



